新型コロナウイルスがもたらす社会の変化による子ども達への影響

 新型コロナウイルスの感染拡大により、日本中はもとより世界各国で混乱が生じ、今まで営んできた「当たり前の生活」を送ることができない日々が続いております。このような日々がいつまで続くのか…はたまた、新型コロナウイルスに対応した生活スタイルがスタンダードになってしまうのか…いずれにしても大人である私達への影響はもちろんのこと、未来に向かって発達を遂げていく子ども達への影響について、保育現場に従事する者としては考えられずにはいられません。

 

 その中でも、友達や先生等との関わり合いを通して「人の気持ちを理解する」「言葉のやり取り(コミュニケーション能力)」等々が育つことを考えると、新型コロナウイルスの感染症対策による「新しい生活様式」を取り入れた保育の営みは困難が生じることが考えられます。

以下の内容は、子ども達の育ちを第一に考えた上で感染症対策を行う難しさを感じている私自身の心境です。

 

 

 

 幼稚園が再開して先ず思うことは、子ども達にとって失われた3ヶ月(新入園児にとっては2ヶ月)の園生活を如何にして取り戻しつつ、これから送らなければならない「新しい生活様式」への対応と、その中での子ども達の「体験を伴う育ちの保障」です。

 

 政府が示す「新しい生活様式」は大人を基準にして考案された感染症対策です。ですから、しっかりと対応できるかどうかは小学生(主に高学年)がギリギリのラインだと思います。

 

 そもそもこの度示された「新しい生活様式」は、私達が危機的な状況におかれた事態を乗り越えるための一時的な救済措置のようなものだと考えます。しかしながら現段階では「新しい生活様式」の終わりは見えず、長期にわたって継続しなければならない可能性が高く、人との関わりを減らすことによる影響は、この先様々な観点から出てくるような気がしています。

 

 ところで、他者から「認められたい」と思う私達の社会的欲求は、周囲と協調しながら人生を歩む人間らしい営みを支えており、それは動物から進化を遂げた人間のみが獲得した「社会性」「協調性」といった能力の基礎となるものだと思います。そういった能力は「新しい生活様式」では発揮しにくく、場合によっては必要のない力となってしまう可能性もあり得ますが、ワクチンや治療薬が身近な存在になり、コロナウイルスとの上手な共存生活がスタンダードになると、本能的に社会的欲求を満たしたい気持ちから、人との関わり合いを求めるようになり、今までのような生活を営む時代に戻ることも十分考えられるでしょう。(個人的にも絶対に戻って欲しいと切に願っています…。)

 

 私達大人は社会的欲求をベースに、人間らしい人生を歩んでいくために必要な体験を幼少期から重ねてきました。その結果、このような事態においても今まで積み重ねてきた経験(信頼関係をベースとした人間関係等々)を活かし、SNSやリモートを活用しながら人との関わりを最小限に避ける生活はある程度可能だと思います。しかしながら、他者との関わり方を様々な体験(“遊び”や 喧嘩をはじめとする“いざこざ”等々)を通して身に付けていく過程を歩んでいる乳幼児期の子ども達にとっては、「新しい生活様式」は馴染みません。(リモートでは心と心が繋がりにくく、限界があります。)もっと言えば、その弊害として「社会性」や「協調性」といった力が身に付きづらく、結果的に人と関わる力を育むことが難しい状況になることも考えられます。そのような体験不足による、これからの人生の影響の方が長い目で見ると心配な点です。

 

 それでもこのような目に見えないウイルスと共存しなければならない非常事態では、乳幼児期の子ども達にとって馴染まない「新しい生活様式」を可能な限り求めていくことも、一方でやむを得ないことかもしれません…。乳幼児期の子ども達が自分の力で「新しい生活様式」を定着させることは難しいため、「新しい生活様式」を定着させ、継続していくためには、大人による強い指示や監視下でコントロールせざるを得ないこともあるでしょう。しかしながら、他者の気持ちを理解する力や社会全体を広い視野で捉える力が未発達な乳幼児期の子ども達には、人との関わり合いの中で次第に身に付けていくことが重要であり、決して奪ってはいけない成長発達に欠かすことのできない大切な体験と言えるでしょう。

 

 私自身も2児の父親として緊急事態宣言の期間は我が子と家庭で過ごす時間が長く、人との接触を避ける等の以前の生活とは異なる制限が多い生活を強いられ、親子共々落ち着かない日々を過ごしてきました。家族内の限られた“関わり合い”の体験は積み重ねてきましたが、当たり前ですが家族は他人ではないので、互いに自分の気持ちを押し通してしまうことができる“甘え合い”が許される環境なため、他人と関わり合う中で培われる「認め合い」「我慢」等の体験が不足してしまいがちでした。子ども達にとっては幼稚園や学校がそのような体験を保障する場であり、社会で生きていく上で必要な経験です。(兄妹での遊びや喧嘩等を通して人との関わり合いは保たれているが、最終的には許し合える関係なため、我慢のポイントを見失い、心のコントロールが上手くいかず、また、日に日にエスカレートしていく場面もあり、あまり良い時間を過ごしたとは言えませんでした。正直、学校等をはじめとする他人と直接触れ合うコミュニティの場の大切さを痛感させられました。)

 

 この度のコロナウイルスとの共存は、私達の生活様式をはじめ、「経済」「教育」「福祉」などの社会全体の“当たり前”の感覚が覆され、今までに経験したことのない新しい生活や文化を形成する必要が求められています。「教育」についても様々な議論が上がり、ウイルス対策を徹底しながら如何に子ども達の「学力」や「生きる力(非認知能力)」を保障していくのかについて、改めて色々な視点から考えるきっかけにもなっています。

 

 他人と接することをしないで、人の気持ちを分かる人間に育つことは皆無と言えるでしょう。「人と関わる」といった行為は、大人は言語でのコミュニケーションが頭に浮かぶと思いますが、年齢が低ければ低いほど言葉以外のコミュニケーションの方法が多くなり、その中でも肌と肌が直接触れ合う等のスキンシップは欠かすことのできない「人との繋がり」を深める行為と言えます。保育の現場では幼児同士をはじめ保育者と幼児が直接スキンシップ等をとる場面は山ほどあります。子どもの気持ちが不安定になり、涙を流したりする時には思いきり大人の懐の深さで抱きしめてあげたいものです。直接「触れ合う」ことを避けなければならない「新しい生活様式」ではありますが、保育現場においては中々馴染まない生活スタイルであることを、社会全体に対して理解を求めていきたいと思うと同時に、感染予防対策を十分に取りながらも、子ども達にとって必要な「新しい生活様式」では体験出来ない経験を、可能な限り保障していきたいと考えていきたいものです…。


「大切なあなた」へ送る”心の栄養” 〜乳幼児期にこそ「愛着形成」を…〜

 近頃、私達親世代にとって“ハッとさせられる”事件が後を絶ちません。特に虐待(ネグレクト)のニュースが飛び交うと、「両親(家族)の愛情に飢えている子ども」「本当は愛したいのに愛せない両親(家族)」の相容れない悲しい関係が浮かび上がり、「どちらも救う方法はないものか…」と悲痛な思いと社会構造の複雑さを抱かずにはいられません。

 

私達大人は子ども達が大人になるまでの間に「規則正しい生活のリズム」を身に付けてほしいと願い、家庭での“育児”や園での“保育”を日々葛藤しながら行っております。

“食事”や“入浴”を可能な限り決まった時間にしたり、就寝前は興奮させない為に“テレビ”や“DVD”等は避け、絵本を読んだりしながら静かに眠りに向かう等々、規則正しい生活習慣が身に付くよう、各家庭においても工夫をしながら忍耐強く“子育て”に奮闘されていることと思います。

 

 当然、生活のリズムを安定させる為に一日の流れを一定にし、形を整えることも大切ではありますが、もっと重要なことは「愛着形成の機会」をしっかりと保障することです。

人間は本能として集団欲から生まれる集団性があり、生きる形態として「仲間と繋がり合って生きる動物」と言われています。

ところが現在の世の中では人と繋がる喜びを感じる前に、「自分自身の安定(自我の安定)」という“人生”を支える上での重要な“土台”が構築されないまま大人になってしまうケースもあり、その結果、自分に“自信”を持てず、自分の“存在意義”もわからないまま世の中をさまよい続け、現代社会で起きている社会問題(動機の不明な殺人等々)へと発展してしまうケースもあるのです。

 

 「無条件にまるごと受け容れてくれる人の存在」なくしては、自分自身の安定を図ることができません。

その一番の役目は言うまでもなく“両親”(特に母親)であり“家族”であると言えるでしょう。

そして、当然園では“先生”(特に担任)がその役割を果たします。

大好きな両親や家族に拒絶されたら「世界に拒絶されたこと」と同じであり、反対に受け入れてもらえたら「世界に受け容れられたこと」と同じと考えても過言ではありません。

 

 また、愛着形成の機会はあらゆる日常の生活場面の中に潜んでいますが、分かりやすく誰しもが経験する一つの例は乳児期の“おむつ”です。

「自分で不快を感じた」→「それを訴えた(泣く)」→「人が来てくれた」→「気持ち良くしてくれた(おむつを替えてくれた)」このような一連のプロセス(過程)の中で、自分の感覚器官への信頼(自分への自信=自己肯定感)、頼んだら人が来て気持ち良くしてくれたという安心感(基本的信頼感)が得られると言われています。

しかしながら現代は“紙おむつ”が主流となり交換の回数も減ったことから、愛着形成の機会から得られる“安定”が獲得しにくい状況でもあります…。

その他にもテレビやDVD、スマートフォンやタブレット等による画面への依存から、保護者と対面する機会が減少し、結果、顔と顔を向き合わせた“コミュニケーション”が不足することで愛着関係を結べない…等々、本来自然な形で行われてきた行為が、社会の成熟と共に失われる機会が増加し、人間の本能でもある「人と繋がり合いたい」という欲求が満たされない結果として、大人の困ることをして気を引く子が増えてきているのが現状です。

とは言っても、“布おむつ”が主流の時代に戻ることは考えにくいので、このような状況を踏まえて試行錯誤しながら工夫することが大切ではないでしょうか。(紙おむつを否定しているわけではありません…。)

 

 そして、一番大切なことは、乳幼児期に「あなたが大切!」というメッセージを伝え続けていくことです。子ども達の心が安定し、充実した毎日を送る上で、心の底から「無条件に依存できる人=両親(家族)の存在」が大切です。

幼稚園には沢山の子ども達がおりますが、私達教師も「みんな大切!」の前に、「あなたが大切!」というメッセージを一人ひとりに伝え、子ども達を可能な限り受容し、自我が安定するよう努めていきたい…と思う今日この頃です。


大切にしたい保育観(子ども観)

 札幌ゆたか幼稚園が大切にしている“子どもの姿”は自分らしく周囲の人と共に生きる姿」です。具体的には「生まれながらもっている気質をベースに、環境によって形成される性格や嗜好性(好み)=<個性>」を大切にしながら、「他者と感情を共有しながら、互いに心地良く過ごすことができる<社会性・協調性>」を育んでいくことです。

れは「子どもが主役」「子どもに生きる権利が与えられている」と言った、子どもが主体的に遊びや生活を営む姿とも言えます。それは当然のことながら、「先生と子どもの信頼関係」「ゆったりとした時間の流れの中で自分を出せる雰囲気」等々の環境に支えられています。

 

 そのような環境を意図的に構成することが、園長をはじめとする保育者の役割であり、子どもの育ちを見通した保育の計画にも繋がることでしょう。このような子どもに寄り添った保育を実践していることは、一見当たり前のこととして捉えられますが、残念ながら全国の幼稚園・保育園・認定こども園の中には「子どもが主役ではなく先生が主役(教師主導の保育)」や「子どもに生きる権利が与えられていない生活(遊びの自由や選択の余地がない、先生に支配され、コントロールされる保育)」を「子どものための保育」として掲げ、大人(保護者)の満足感を第一に考え、子どもの気持ちが置き去りにされている残念な現状があるのも事実です…。

 

  保育の場面において保育者が意識したいことは…「一人ひとりにかける言葉」「一緒に遊ぶ姿勢」「共感的且つ受動的な眼差し」「醸し出している雰囲気」等々、細かく言えばきりがありませんが、「保育者が上で子どもが下」の上下の関係ではなく、「傍らで共に」の横の関係が、「主体的に生きる子ども」を尊重した保育に繋がり、その上で一人ひとりの成長発達を支える「意図を持った保育」を営んでいくことが大切なことだと思います。そのような環境で育った子どもは将来、「社会を創造する市民」として様々な分野で自分の持ち味を活かして活躍することでしょう。


いつもと変わらない日々の有難さ…

 9月6日未明に発生した地震から1週間が経過し、未だ余震が続き、電力の供給不足による国からの節電要請や、物流が滞ったことにより食材等の商品が品薄状態になる等々、安心できる生活を取り戻すにはまだ時間を要する状態です。今回の「胆振東部地震」による影響で亡くなられた方々にご冥福をお祈りするとともに、一日でも早い回復、復旧を心より願っております…。

 幼稚園は7日の20時過ぎに停電から復旧し、各ご家庭の被災状況並びに子ども達の健康状態等の確認をはじめ、園舎内外の安全点検をしたり、バスルートの道路状況等を確認し、11日より登園を再開しております。

 再開した初日、地震による影響等で、不安定な様子を見せる子どもがいないか等々、生活や遊びの様子を注意深く見ておりましたが、殆どの子ども達の表情はいつもと変わらず、信頼を寄せる「先生」や「友達」と一緒に遊びを楽しみ、私の目には安定した心持ちで園生活を送っているように感じることができた一日でした。その中でも数名ではありますが、涙を流しながら登園してくる子や、登園を渋る子もおり、地震が全ての理由かどうかはわかりませんが、何かしら不安な気持ちになっている子もいることを改めて実感し、保育者として温かくやわらかな心持ちで接し、遊びを通して楽しい時間を過ごすことで“安心感”のある園生活送ることができるよう、教職員全員で支えていくことを確認いたしました。

 この度のような震災があった後に、子ども達の「明るい笑顔」「元気なパワー」を直接肌で感じることができる私達の保育の仕事は、改めて幸せな仕事であることを実感しているところです。それと同時に“今”を生きている“未来志向”の子ども達に私達大人は助けられている気がします…。子ども達が遊びに熱中している姿を見ると、“いつもと変わらない穏やかで緩やかなひと時”として時間が流れているように感じ、震災があったことを忘れさせてくれる程、何とも言えない朗らかな気持ちにさえなります。一方で、年長の女の子同士で、「地震がきて私の大事なものが倒れちゃったの…」「私の家も…」等々、この度の地震について話をしている様子もあり、幼いながら記憶として残り、現実の世界を受け入れ、それでも前向きに生きようとしているように私には感じました。年齢や性格・気質によっても震災の受け取り方や感じ方は当然異なり、大人である私達でさえ様々な捉え方があることと思います。ただ一つ言えることは、私達大人の感情は子どもに対して理屈ではなく、共に時間を過ごす中で敏感に伝わっていきますので、不安を煽る態度や行動を避け、安心感の中で明るく前向きに生活を楽しむことができるよう支えていくことが大切な気がします。とは言っても、大人が頑張りすぎず、心に余裕を持つことが大切です。大人のイライラや不安は直ぐに子どもに伝染します。私達自身が生活にゆとりを持ち、子ども達と共に前向きな気持ちで過ごし、困った時には互いに助け合い、いつもと変わらない日々に感謝しながら子ども達との時間を大切にしていきたいものです…。


運動会が近づくと…

今週末の運動会に向けて園内も運動会モードの雰囲気が漂ってきました。

子ども達は運動会当日行う競技を、クラスや学年毎に楽しみながら経験を積み重ねてきています。

 

運動会で行う競技は、必ずしもクラスや学年毎のみんなで活動する時間だけに楽しむものではありません。

 

日々の生活場面や自由に遊ぶ時間の中でも、運動会の競技を思い出しながら”遊び”として自分達なりに再現したり、アレンジしながら楽しむ姿も見られます。

 

【自由に遊ぶ時間の中で自分達で「リレー遊び」や「騎馬戦(帽子を取り合う遊び)」を楽しむ姿】

 

 

このように運動会の競技は、教師(大人)から一方的に経験を重ねるための”練習”としてやらせるのではなく、あくまで「体を動かすことを楽しむ」「友達と力を合わせることに喜びを感じる」等をねらいとした”遊び(活動)”として楽しむことで、充実感や満足感を味わっていきます。

 

 

【運動会当日に使う「応援グッツ」を作ったり、実際に使ったりして楽しんでいる姿】

 

 

運動会の活動がきっかけとなり、日々の遊びや生活が充実したり、今まで以上に自己発揮できるようになったり…と、子ども達の成長は計り知れません。

私達は「主体的に生きる子ども」を育てるために、子どもの成長の通過点として運動会の活動を捉え、園生活を支えていきたいものです…。

 


自分らしい”こだわり”と人と共に”生きる力”

今回は卒園の時期が近づく年長児のエピソードの紹介です。

 

年長児のクラスを覗くと、卒園する記念に「幼稚園へのプレゼントを作る」という活動をしていました。

「自分達の園生活の歩みを形にして残したい!」という意見から、年長児として過ごした1年間をアルバムとして作成することになったそうです。

 

この日はグループ毎にアルバムの台紙を作り、その後台紙に写真を貼るところまで進める計画でした。

 

そんな中、1つのグループのやり取りを聞いていると、次のような会話が聞こえてきました。

 

 

Sちゃん「写真を斜めに貼るといいんじゃない?」

 

Yくん「どうして?」

 

Sちゃん「だって斜めの方がオシャレでしょ!」

 

Yくん「でも…斜めにしたら見づらいよ。」

 

Sちゃん「…。でも、斜めの方が素敵だよ!」

 

Yくん「斜めは見づらいよ…。」

 

Sちゃん「お願い!斜めにしよう!」

 

Yくん「でも…見づらいから…。」

 

 

このようなやり取りをしていて、中々意見がまとまりません。

 

二人の表情からは「どうしよう…」と、困った感じです。

 

グループ内の他の二人も、SちゃんとYくんのやり取りを見守るものの、解決の糸口が見つからない様子でした。

 

ついに困り果てたSちゃんが、私に「園長先生斜めがいいと思うけど、どうしたらいいと思う?」と尋ねてきました。

 

私は「たしかに、Sちゃんの言う通り”斜め”にするとオシャレで素敵だと思うよ。でも、Yくんの言う通り斜めよりも真っ直ぐの方が見やすいし…。だったら、ちょっとだけ”斜め”にしてみたら? あんまり”斜め”にし過ぎると見づらいから、ちょっとだけだったらどうかな??」

 

それを聞いたSちゃんが「Yくん、ちょっとだけ”斜め”でもいい?」と、優しい口調でお願いするように言うと…

Yくんは「ちょっとだけ”斜め”でいいよ…。」と、表情は若干不満そうではありますが、Sちゃんの意見を受け入れていました。

 

その後、私は一連の様子を振り返ってみましたが、果たして私のかけた言葉(援助)が良かったかどうか…。

と言うのも、結果として私の意見に決まってしまい、Yくんは本当にそれで良かったのか…?

 

私なりに、子ども達の世界に加入し過ぎないように見守りつつ、助けを求めてきたSちゃんに応えるために、二人の気持ちを十分に尊重した上で、自分なりの考えを伝えはしましたが…

 

このように「保育の援助の場面」においては、日々悩みが尽きません。

 

関わり方において「絶対にこれが正解」はありませんが、大切なことは子どもの「心の中」を覗き込むように内面を探ることだと思います。そして互いの思いをしっかりと受け止め、それぞれを「一人の思いや考えを持った人間として尊重する」ことを決して忘れてはいけません。

 

一方で”子どもの育ち”として今回のやり取りを見ると、年長児らしい確かな成長を感じることができます

 

それは、SちゃんにしてもYくんにしても「自分の思いや考え(意見)をしっかりと持って生きている」ことです。

 

更に、その自分の思いや考え(意見)を「自分の言葉で表現している」ことも、年長児の終わり頃までに育ってほしい姿です。

 

そして、それぞれの思いや考え(意見)が食い違い、「合意の形成ができない」「妥協点が見つからない」等々の様子が見られた時、身近の大人の力を借りながら意見の擦り合わせをし、100%の納得とはいかなくても、互いの思いを尊重し、みんなの意見としてまとめながら物事を前に進めていく力も育っているなぁ…と思い、私達の園で掲げている「育てていきたい子どもの姿」に近づいていることを、実感することができたエピソードでした。

 

※札幌ゆたか幼稚園では「自分らしく周囲の人と共に生きる喜びを見いだせるよう、子ども達一人ひとりの”心の根っこ”を支える」ことを、子どもの成長を支える”モットー”として掲げています。

 

自分の思いや考え(意見)を持ってしっかりと自己主張ができる「自分らしく生きる」ことは人として大切な力です。

でもそれだけでは他者からは「わがまま」と感じられ孤立してしまうことも…。

そこで、他者と共に生きる上で必要な「協調性・社会性」を身に付け、互いに「受け入れ」「受け入れられて」関係性を構築し、共通の目的やその達成のために協力し合い、喜びを分かち合うことも人として大切な力です。

 

社会の中で豊かに生きていく上で欠かすことができない「2つの生きる力」を、遊びや活動を通して乳幼児期から育むことが大切であり、その力を様々な場面においてバランス良く扱う力も、乳幼児期に上記のようなエピソードの場面を通して育んでいきたいものです。

 


おもちつき会

”おもちつき”は子ども達になりに、日本の伝統文化に触れる日です。

当園ではお正月が近づく12月頃に毎年行っています。

 

先ずは「このもち米を杵でつぶすとお餅になるんだよ!」と言いながら、子ども達に炊き上がったもち米を見せます。

子ども達は目を丸くしながらもち米をじぃ〜っと見つめていました。

 

”おやじの会”のおやじ達が力を込めて杵でもち米をつぶす姿に、子ども達から「ガンバレ〜!」と熱い声援が聞こえてきました。

 

いよいよ仕上げは子ども達の出番です!

 

杵を力いっぱい振り上げる姿は子どもながらに勇ましさが感じられます。

 

おやじ達による仕上げの仕上げでお餅の完成です。

 

満足気に完成したお餅を見る姿は、一回り大きくなった(成長した)ような気がしました。

 

最後にお餅を丸めてくれている母の会のお母さん方の姿を見ながら各クラスに帰っていきます。

 

このようにおもちつき会の一連の流れの中で


2歳児の心の中

今回は札幌ゆたか幼稚園の2歳児クラスの子どもの気持ちを、紐解いていきたいと思います。

 

そもそも「学年2歳児(年度中に3歳の誕生日を迎えるお子さん)」は、ようやく自分の気持ちを”つたない言葉”で表現できるようになる発達段階です。

しかも、言葉の発達は個人差もあります。

 

そんな2歳児の「言葉にならない(出せない)心の声」を、私なりの言葉でポエム風に表現してみました。

場面は朝の「登園風景」です。

 

 

ぼくの気持ち…(言葉にならない心の声)

 

僕は幼稚園に行くんだ!

でも、お母さんと離れるのはちょっと寂しい…。

いよいよ家を出て幼稚園に出発。

幼稚園の玄関にたどり着くと、なんだか急に全身に力が入り固くなる…。

目の前には信頼できる大好きな先生が僕を温かく見つめてくれる。

よし!外靴を脱いで自分の教室に向かおう!

でも、やっぱりお母さんとは離れるのは寂しい…。

いや、離れたくない!

それでも幼稚園は楽しいところなのは知っている。

自分のお気に入りの玩具はあるし、自分の居場所もある。

僕の気持ちを受け止めてくれる先生もいるし、一緒にいて楽しい気持ちにさせてくれる友達もいる。

どうしよう…。

とりあえずお母さんと一緒に教室まで向かうことに…。

教室に入って一通り準備が終わると、いよいよお母さんと離れる瞬間が訪れる…。

やっぱりお母さんとは離れるのはヤダ!

とりあえず玄関までお母さんと先生と一緒に行くことに…。

僕は知っている。

幼稚園の玄関はお母さんと離れる場所。

幼稚園の玄関はお母さんに「行ってきます!」を言う場所。

でも、今日は「行ってきます!」の気持ちが湧いてこない。

どうしよう…。(お母さんもどうしたら良いのか…複雑な気持ち…)

悲しい気持ち、不安な気持ちが抑えられず居ても立っても居られない。

僕の目から大粒の涙がこぼれ落ちる。

僕は「嫌だ〜!」と大きな声を出して抵抗してみる。

僕はダメなことを知っている…それでも…「お母さんと幼稚園にいたい!」

しかし願いは叶わず、ついに本当に離れる時が…。

お母さんも悲しそうで心配そうな顔で僕を見ている。

僕は大好きな先生に抱かれながら、泣きながらお母さんと離れることに…。

でも、僕は知っている。お母さんは必ず迎えに来てくれることを…。

それでもやっぱり悲しい気持ちは抑えられない…。

 

しばらくの間、包み込まれるように先生に抱かれながら心の中で葛藤している。

(“自立しようとしている心”と“依存したい心”が行ったり来たり…)

やがて、先生と一緒に安心・安定できる自分の居場所の教室に向かうことに…。

自分の教室の中で大好きな玩具で遊ぶと、徐々に気持ちが晴れていく。

僕はいつの間にか遊びに夢中に…自然と笑顔になってきた。

もう大丈夫!

幼稚園は僕の大好きな場所。

楽しい遊びに夢中になっていると時間はあっという間。

帰りは大好きなお母さんが迎えに来てくれるから…。

僕の顔には流した涙が一粒輝いていた…。

 

 

毎朝お母さんと一緒に歩いて登園してくる2歳児の、何とも言えない複雑な気持ちが伺えるのでは…と思います。

 

当たり前ではありますが、「お母さんは大好き」です。

 

一方で、入園して半年も経つ頃になると、幼稚園には「大好きな先生」がいること、「自分の好きな玩具(物や生き物等)」「自分の安心できる空間(教室)」があることが、2歳児なりに理解してきます。

(条件が整えば、子どもの心は徐々に安心・安定していきます。)

 

それでも頭の中は「大好きなお母さん」と「大好きな幼稚園」が入り混じり、自分の力だけでは整理ができません。

 

頭のどこかでわかっていても、現実を中々受け入れられない。

自分の力で気持ちを切り替えることが、中々難しい。

 

これは2歳児のみならず3歳児にも見られる姿であり、もっと言えば4歳児以降も場面によっては度々見られることと思います。

 

私達が大切にしたいことは、この時期の「言葉にならない(出せない)心の声」しっかりと受け止め、そして向き合い、丁寧に返していくことです。

 

子どもの気持ちを十分に理解した上で、子ども自身が自立に向けて成長できるような援助は何か…

このような成長過程の営みをゆったりとした時間の流れの中で、支えていきたいものです…。

 

 

 

 

 

 

お母さんと離れた後は、生き生きと晴れ晴れした表情で、自信を持って遊んでいた様子が見られました!


運動会がきっかけ…

運動会当日が近づくにつれ、運動会の競技を自分達なりにアレンジしながら遊ぶ姿が、園庭のあちらこちらで見られるようになりました。

特に年長児は「徒競走」や「クラス対抗全員リレー」の経験をきっかけに、遊びの時間(自分の好きな遊びを見つけて、友達や先生と一緒に楽しむ時間)の中で競走をしたりリレーを楽しむ等、運動会当日への期待はもちろんですが、単純にその場の「遊び」として純粋に楽しんでいる姿が微笑ましく思えました。

 

さて、そのような「遊び」の様子を具体的に紹介いたします…

 

競走をしたい子どもが集まってきたのか、あるいは最初は他の遊びを一緒にしていて、その後「競走をしよう!」とみんなで決めたのかわかりませんが、年長児数名が競走(かけっこ?)をしようとしていました。

 

ここで私が「面白い!」と感じたことは、一人ひとりのスタートライン変えていた点です。(ハンディをつけていたのです。)

 

何やら「○○君は走るのが早いから、ここね!」「僕はこの辺。」「○○君はもうちょっと後ろがいいんじゃない?」等々、今までの経験の中で互いの走る速さを把握し、自分達なりにスタート位置を調整しながら競走を楽しもうとしているのです。

(互いに思いや考えを伝え合いながら合意を形成し、自分達で決めたルールの中で遊びを楽しんでいるところが年長児らしい素敵な姿だと思いました。)

 

大人の私から見ると「○○君の方が早いからもう少し後ろの方か良いのでは…??」と思いましたが、そこは「子ども達の遊びの世界」なので、当然口出しはしません(笑)

 

そして、一人の子どもの「よーい、スタート!」の掛け声でスタートしました。

 

自分達で設定したゴールに近づいてきました。

 

走る表情からも、真剣且つ楽しそうな雰囲気が伝わってきます。

 

全員が走り終わり、それぞれの順位が確定します。

そして、余韻に浸る間もなく次の勝負が始まります。

 

すると…その様子を見ていた年中児が近くにやって来て、「いーれーて!」の一言。

特に言葉を交わすことなく、その年中児も何となく仲間入りし、次の勝負に加わりました。

(言葉はなくても目線や醸し出す雰囲気によって、「受け入れる」「受け入れられた」等の気持ちのやりとりを交わしているところも、「同じ幼稚園の仲間」として認め合っている気がして、微笑ましい気持ちになりました。)

 

<今回の「遊び」から学びや成長が感じられる点…>

・運動会当日に向けて日々クラスの皆で楽しんでいる競技(徒競走やリレー等)を、他の場面でも「自分達の遊び」として再現して楽しんでいる点

・仲間の特性を互いに把握し理解している点

・どうやったら競走がより楽しくなるのか、思考を巡らしてアイディアを出し合い、楽しんでいる点

・年下の子どもを拒むことなく仲間として受け入れる雰囲気を作っている点

 

 


子どもが発した言葉の本当の意味…

 

先日、毎年子ども達が楽しみにしているクリスマス会を行いました。

子ども達にとってクリスマス会は特別な行事の一つであり、先生方も「毎年行っている行事だから例年通り」ではなく、その年毎に子ども達が心から楽しめるような会となるよう計画を立て、準備をし当日を迎えます。

 

今年は先生方によるクリスマスソングの演奏を行い、またフォークダンスをして楽しみました。(もちろんサンタクロースも登場しました!)

 

そのような楽しい一時に起きたある一場面から、「子どもの気持ちに寄り添う」「子どもの行為を考える」「子どもが発した言葉の真意を考える」等々、一人ひとりの子どもを理解することについて私なりの考えを述べてみたいと思います。

 

クリスマス会が始まる時、何だか落ち着かない一人の年長児の女の子の様子がありました。

(クリスマス会に参加したくないと言い、一人で教室にいると言ってみたり、教室から椅子を持ってきて自分だけ椅子に座りたいと言ったり…等々、何か理由をつけて担任に訴えている様子…。)

 

その女の子は普段は積極的な一面があり、相手の事を考えて行動できる優しさや思いやりの気持ちがある、感性豊かな年長児です。

私からみても友達と一緒に色々な遊びを楽しみ、充実した園生活を過ごしている印象で、いつも笑顔が絶えない素敵な女の子です。

 

私はあまり見たことのないその子の行動に少し驚きながらも、遠くから注意深く見守っていると、担任との話し合いの末、何とかクリスマス会に参加することになり、担任の隣で座っている姿が目に入ってきました。

 

クリスマス会は進み、担任の隣で時々甘える仕草を見せることもありますが、担任を拠り所にしながら何とか参加し続けている様子です。

 

しかし、次の瞬間担任がクリスマスソングを演奏するためにステージに上がると、今まで拠り所にしていた一本の糸が切れたかのように、急に姿勢が崩れ、床に寝そべろうとしたりする姿が目に入ってきました。

そして極めつけに、演奏をしている担任に向かって「下手くそ!」と、一言罵声を発したのです。

 

さすがに近くにいた他の先生から、「その言葉はないんじゃない?」「○○先生は一生懸命演奏しているのに可哀そうだよ…。」と言われていましたが、その言葉を耳に入れる様子はありませんでした。

 

さて、このようなクリスマス会で見られた場面は、日々の保育場面においても目にすることもあります。

 

ここで考えてみたいことは、担任にあの手この手で訴える言動や女の子が発した「下手くそ!」の言葉の真意です。

はたして女の子は担任に本当にそのような言葉を言いたかったのでしょうか?(思ったのでしょうか?)

あるいは、担任を困らせたかったのでしょうか…?

 

ちなみに、その後の様子は…教室内でも落ち着かない様子が見られましたが、降園時には少し穏やかな表情で担任と会話を交わし、ほとんどいつもと変わらない姿で降園していきました。

 

私達は一人ひとりの子どもの様子を一日の流れの中で捉えているため、ある一場面の言葉や行動だけを切り取って、子どものことを理解しようとしているわけではありません。

”直前までの様子””前日の様子”、あるいは”ここ最近の様子”から子どもの言動を理解しようと試みます。

 

更には今後育ってほしい姿を思い描きながら、かける言葉を選んだりタイミングを見計らったりしながらその子の成長や幸せを願い、その子に関わろうとします。

 

それでも、「かける言葉が違った…」「タイミングが今ではなかった…」等々の思いに陥ることもあり、一人ひとりの気持ちに寄り添うことの難しさを痛感することは少なくありません。

 

そのようなことから、今回の女の子の気持ちを考えてみると…

「下手くそ!」と言いたかったのではなく、担任が傍から離れたことが嫌で、その気持ちを「下手くそ!」と言う言葉で表現しただけではないでしょうか…。

あるいは、「その子の言葉の裏に隠された気持ちの表現」と捉えることもできると思います。

 

子どもの言動だけ捉えれば、「悪いことを言う子ども」と捉えてしまいがちですが、そのようなことを本気で言いたいと思う子ども(特に幼児)はおそらくいないと思います。

 

そのため、私達は言葉や行動だけを取り上げて評価をするのではなく、先ずはその時の「心情面(目に見えない心の動き)」を捉え、その子の気持ちに本気で寄り添おうとすることを決して怠ってはいけないと感じた場面であり、保育をしていく上での基本的な姿勢として肝に銘じる必要があると感じた出来事でした。

 

 

ちなみに…後から担任とその子について話をすると、最近下の子が産まれて落ち着きのない様子がしばし見られることがあるようです。

 

子ども(特に幼児)はちょっとしたことで心が不安定になることがあります。

私達大人でさえも何か嫌なことがあったりすると気持ちが落ち込んだりして、言動に微妙な変化が生じることもあります。

 

それが子ども(幼児)であればあるほど、負の気持ちが積み重なると大人以上に言動に現れるのは当然のことと言えます。

 

一人ひとりの子どもの傍らに身を寄せ、温かい眼差しで気持ちを寄せながら、その子のことを深く理解しようとすることが、私達大人が保育(子育て)の営みにおいて大切にしなければならないことと言えるでしょう…。


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